第10章
【銀杏屋敷にて】
滝沢兵部は銀杏屋敷で、三浦主水正の妻つるに出会う。常連客の山内が、つるには誰も手だしが出来ない、試してみるかと兵部を唆す。そのうち女芸者と男芸者によるみだらな見世物が始まるが、兵部はいたたまれず、帰ろうとする。
10の1
滝沢邸で、兵部を呼びに来た家扶の岡野吾兵衛を相手にぐちを云っている所へ、主殿本人が現われる。父と思わず云いたいことを云えといわれ、兵部は城代家老4代目になることを期待される自分の息苦しさを訴える。望みはただ一つ、自由にさせてもらいたいことだ。けれども来月帰国する殿に跡継ぎとして紹介されることに同意する。
10の2
兵部は大きく変化した自分を振り返り、その契機が主水正の言葉だったと思い当る。西小路に囲っている女はるは、ただ従順なだけで兵部に向けて感情を表さない。はるの心の中に手が届かないことに苛立ち平手で女の頬を打ってしまう。
10の3
西小路の家へ勝手に上がり込んでいた谷宗岳と連れ立ち、加地町の料亭にいくが、もてなしが悪いので、白壁町へゆくことにする。途中、谷宗岳が江戸の妻の不倫を三度も目撃したことを告白する。従順である妻の本心への不信は兵部のそれと相通ずる。
10の4
兵部は(おそらく)初めての女郎買いで、こういうものこそ人間らしさを味合わせてくれると感じる。だが一方商売として男と接する女は、愛され、いたわられることもないと分る。その点では、自分とそっくりだと思う。
10の5
藩主昌治が帰国し、祝いの席に臨んだ兵部だが、相続の話も出ず、昌治からは一言話し掛けられただけで、役に立たない存在と思い知らされる。兵部は女遊びに溺れ、囲っている女に対しても冷ややかだ。父から嫁取りの話が出る。父は兵部の責任の重さを理解しつつも、辛抱してその責任を果たす義務のあることを説く。
第11章
【平野屋にて】
御用商人たちが集まり、主水正が堰を完成させれば、重職にとりたてられるだろう、そうすればこれまでの重職たちのように、金で操ることは出来ないと予測する。そして唯一の弱点らしいのは女、ということで幼馴染のななえを別宅に囲う相談をする。すでにななえは承知だという。
11の1
七という少年が主水正をたずね、堰の工事を妨害する者があることを告げる。それまでに不審と思われる事故があり、何者かによる妨害だとすれば納得がいく。藩主のこの堰の工事へのゆるぎない決心に主水正以下みな安堵する。
11の2
工事の妨害者を捉まえる役を七とその仲間でやらせてくれと七が申し出る。その翌日突然飛騨守昌治が供を二人つれて現れる。主水正らに案内させて工事場全部を見て回る。昌治は自身でよく調べてあり、細かいところまで専門用語を使って質問したり自分の意見を述べたりする。
11の3
主水正を送り出す別れの宴が開かれる。普段禁じられている酒も出され、和やかな会になるが、反対勢力の大きい難しい仕事だという覚悟を新たにする。城下から来た迎えの者と共に主水正は小屋を去るが、待ち構えていた七がその眼で見たことを話す。
11の4
七は堰を妨害する一味と夜遅く話していた人物が主水正たちの小屋へ帰っていくのを見たと主水正に告げる。
その妨害者を見つけたら、それがどう扱われるかを見ることで、江戸から来た四人の中の誰が妨害を指図しているか分るだろうから他言せず曲町の主水に知らせることを七に約束させる。
11の5
五年ぶりに曲町の家へ帰りつくと、我が家の様子が変ったと主水正は感じる。召使たちが主水正に挨拶にくると、それぞれが主人を大事に思っていることが伝わり、妻つるの侍女の芳野までが、なごやかな口の利き方をするようになっている。つるは五年ぶりに帰ってくる主水から逃げるように外出している。
第12章
【森番小屋にて】
大造がこのごろ城下へ行かないのは、主水正が刺客をみごとに斬り倒したことをうっかり口外し、それを聞いた岩上六郎兵衛から脅されたからだとわかる。市井で主水正の人気が高まり、それとは逆にライバルの滝沢の若さまが身を持ち崩しているらしい。誰かがやらなければならない、実地に役立つことを主水が引受けていると、大造はそれを評価している。
12の1
城下へ戻った主水正は総支配補佐として領地の測量をするが、測地が進まないのは上役たちのやる気のなさや融通の利かなさのせいだと分かる。測量中雪が降ってきたので、総支配の山内時四郎はさっさと帰ってしまい、主水は雪をよけるため、近くの百姓家に身を寄せる。
12の2
その百姓の家は大変に荒れており、住人の白髪の主の話でその一家が困窮を究めていることが分かる。日銭をかせげるよう、手紙を書いて仕事が得られるようにしてやるが、あまりそれを喜ぶようにはみえない。藩主が示した山上憶良の貧窮問答歌を思い出し、千年経っても少しも改善されていないと主水は嘆く。
12の3
測地の現場に戻ると、支配の一人が、あの夫婦は自分たちの困窮ぶりを誇張し、同情させ銭を恵ませようとするのだと教える。そして、実際のところは心底の怠け者だと云う。12月の或る日、下城のとき谷宗岳につかまり平野屋へつれて行かれ、そこに御用商人の桑島三右衛門と佐渡屋儀平がやってくる。
12の4
平野屋の座敷から逃げ出した格好の主水正に谷宗岳は、汚れた手が握っているものを取り上げるには、こちらも手も汚さなければならない。その脆い部分を見つけるためにも中に取り込まれろと諭す。そして主水正はその忠告を受け入れる。12月下旬、弟の阿部小四郎が金の無心にくるが、主水正は金は与えず、弟を諭す。小四郎は捨て台詞をはいて去る。
12の5
その冬は主水にとって事の多い冬だった。石原村の伊平が来て、捨吉は何をさせてもまっとうに仕事は出来ず、賃金だけはしっかり貰う。これでは廻りの者に示しがつかないと、主水正に訴える。年賀に登城すると、堰の工事にかかわる者など七人が集まり、藩主昌治も顔を出す。藩主は工事を妨害する者があることを知っていた。密告者は誰か、そして藩主が動けば大事にもなる。難の多さに主水は深いため息をつく。
第13章
【孤独の部屋】
山根つるが三浦主水正に嫁して6年。侍女の芳野は、主水正を直に知ることで平侍あがりの出世欲のかたまりという偏見がなくなっている。そしてつるに対してそろそろ強情を張るのをやめるよう諫める。つるは強硬に反論するが、内心は淋しく思っており、こんなことになって自分が本来の自分でないことに苛立ちと孤独を強く感じる。
13の1
御用商人の桑島三右衛門が花木町に主水正のための家を用意してあるという。他の御用商人と共に行ってみると、ななえが待っている。囲い者になる覚悟のようだ。ななえと語り合ううち、主水正はあたたかい湯にひたされるような心の安らぎを感じる。
13の2
主水正は江戸から帰って、「世間」というもの「人間」というものを知った自分の成長を感じ、しばらくぶりで出会った人々の変化を知る。そして自分を待ち受ける苦難を思い涙を流すが、ふとななえのことを思い出し、力を取戻す。夜更けに芳野が部屋をおとずれ、つるを許してやって欲しいと哀願するが、許すのはつるの方だ主水はいう。
13の3
岩上六郎兵衛が「拾礫紀聞」の7冊の欠本が滝沢邸にあることを主水正に知らせる。一方、主水正は雪解けのなか測量したあとで、泊るつもりでななえのいる家を訪ねる。女の受けるべき歓びと力を知るななえは幸福だと、隣に寝ながら、主水正は思う。
13の4
ななえとひと晩を過ごした翌朝、全身がもみほぐされ、疲れがぬぐいさられ、爽やかな力感に包まれる自分を感じる。地味好みのななえのしつらえは、しんから彼を休息させてくれるようだ。出仕のしたくをしていると七が訪ねてくる。七は曲町の本宅でここに主水正がいることを聞いて訪ねて来たという。
13の5
工事の邪魔をする人間が分かったようだと七はいう。五日前の晩、築きたての堤から横杭を抜いていた人夫を捉まえて、佐佐たちのいる小屋へ連れて行った。七たちからその人夫を引き取ると錠のかかる部屋へ入れたようだが、昨日見にゆくと人夫は逃げたという。鍵は佐佐が持っているから、それが内通者だと七は疑うが、独り合点をするなと主水正は七にくぎをさす。
第14章
【銀杏屋敷にて】
滝沢兵部は三浦の妻と会いたがるが、屋敷をあずかる花月尼から、ここでは家柄も身分も名もなく、ただの男と女になる場所だ、とたしなめられる。持仏堂へ行く事をすすめると、案内しようと一人の女が入ってくる。兵部に話があるのだという。その女は、八重田このみと名のる。
14の1
三月下旬藩主昌治が参勤で江戸へ立つ前に、主水正ら七人を呼んで、事業の進捗状況などを聞く。そして幕府に提出する測地図にこの堰を書き入れるべきかどうか、意見を求める。主水正は、予定地として記入することを提案し、皆の賛同を得る。
14の2
城中で尚功館の、椿山で藤明塾の剣術の幼年試合があり、主水正は判士として尚功館の試合に出た。双方の師範から剣術指南に来てくれるよう請われるが断る。年齢を重ねたかつての師が、剣術を通して侍の志操を高め藩全体の気風刷新をとこだわるのを、かたくなになったと感じる。ふとしたことから6年前滝沢兵部から恨まれるきっかけとなった出来事に気づく。
14の3
梅雨にしては強い降りが続き、主水正は堰の工事現場へ通う。そこへ米村青淵がやって来て、安永丙申の年の大洪水のような被害を防ぐため、堰を切って水を三つ沼へ逃がすよう強い言葉で要請する。江戸から来た小野田たち3人は反対するが、かつての洪水の被害の大きさを怖れ、主水正はテキパキと指示を出す。
14の4
洪水を警戒する現場小屋に前触れなくやってきたななえに主水正は驚く。堰の造築と新田開拓には二方面の反対がある。その一つである大地主の米村青淵が大水を理由に、堰をつぶしにかかっているとも言える。だが今は水そのものが堰堤を崩壊させかけている。自然の容赦ない作用に人間の知恵と努力の積み重ねで立ち向かうしかないと主水は思う。
14の5
洪水の被害は先年のそれより大きくせずに、くい止めることが出来た。また堰の各部分の耐性への詳しい実験にもなった。堰堤が大いに役立ったことを領内全部が認めたようだ。水が引いたあと二日間の休息中、小屋で主水正は佐佐と二人きりなるが、いつもとはちがう佐佐の様子に気づく。ななえの待つ花木町で主水はしばしの安息感に浸る。
